読書「織田信長と京都」内容と感想です
「織田信長と京都」河内将芳(かわうちまさよし)さんの本を読みました。
去年、NHK大河ドラマを見まくり、織田信長さんは
秀吉さん、家康さんと共に圧倒的に登場回数が多かった
と思います。
プロローグ――京都のなかの信長の足跡 |
第一章 「武家御用」の時代 |
第二章 「禁中守護」の時代 |
プロローグ――京都のなかの信長の足跡
信長さんがどこで死んだかを聞かれたら
本能寺と答えます。(社会の授業で習ったから、、)
美濃が本拠地だったのに。。
何故、明智光秀に謀反を起こされ、何度も京都に
行ったのかが分かります。
著者も何度も京都訪ねられています。
第一章 「武家御用」の時代(永禄十一年~元亀四年)
Ⅰ 「武家」足利義昭のために(永禄十一年~永禄十三年)
信長の入洛で京中騒動
足利義昭が入った細川亭
信長が入った古津所は何を意味するか
本国寺の変を機に義昭御所を普請
織田弾正忠所はどこか
信長が妙覚寺に移った理由
寄宿先として好まれた日蓮宗寺院
寄宿を支える銭と米
Ⅱ 京都と元亀争乱(永禄十三年〔元亀元年〕~元亀四年)
諸国の侍に届いた信長の触状
義昭御所に近い半井驢庵所
信長を苦しめた元亀争乱
利息があてられた禁裏様御賄
本能寺がはじめて宿所とされる
徳大寺殿御屋敷、信長の屋敷として普請はじまる
義昭と敵対し洛外を焼き討ち
上京焼き討ちで焼け野原に
焼き討ちされなかった下京
第二章 「禁中守護」の時代(天正元年~天正九年)
Ⅰ 「禁中」を守護する右大将(天正元年~天正四年)
信長の申請で天正に改元
浅井・朝倉氏の滅亡で道中が安全に
変わらず妙覚寺を宿所にした理由と「大樹若君」
相国寺を城に構える
「禁中守護」のための相国寺寄宿/妙覚寺本堂の前で出迎える
右大将任官のため上洛
二条殿を移し報恩寺を普請
信長が接収した二条殿御屋敷
義昭御所の解体と信長の思惑
進められた上京の復興
思いのほか早く復興をとげた「西陣」
あたらしい市街地・新在家絹屋町
Ⅱ 京都と安土の往復(天正五年~天正九年)
信長が二条殿御屋敷へ移る
大雲院御池寺屋敷地割絵図にみる「二条殿御屋敷」跡地右大臣・右大将辞職の衝撃
織田信忠の上洛と昇進の意図
二条殿御屋敷と安土城の関係
京都・安土間はどのルートを通ったか
二条殿御屋敷での日々
二条殿御屋敷を誠仁親王へ進上したのはなぜか
妙覚寺と本能寺に役割の変化
内裏の要望でおこなわれた御馬汰
町人たちによって作られた御馬汰の馬場
二度の御馬汰は大盛況
エピローグ――天正十年、信長最後の上洛と「京都の儀」
生涯最後の正月となった天正十年
信長のもとへ届いた武田氏三人の首
両御所から届いた「将軍になさるべきよし」
最後の上洛
最後の一日、信長の油断
六月二日
「京都の儀」のゆくえ
故地を訪ねて
1古津所跡、細川亭跡、宝鏡寺
2義昭御所跡、妙覚寺跡
3半井驢庵所跡
4徳大寺殿御屋敷跡
5相国寺
6円福寺の前
7二条殿御屋敷跡
8本能寺跡①
9本能寺跡②
織田信長は足利義昭と奉じて京都に入京して以降、義昭や朝廷など、否が応でも京都に関わりを持つことになりました。
しかし、自身の本拠は岐阜城や安土城に置き、決して京都に拠点は設けず、上洛した際には宿所に滞在することを旨としました。それは義昭を京都から追放した後も変わることはありませんでした。
はたしてそれはなぜなのか?
本書では緻密な「信長在京表」をもとに信長の行動様式を分析することで、「不幸」だった信長と京都との関係を読み解きます。
また、信長は妙覚寺や本能寺など、日蓮宗寺院を宿所として多く用いました。はたして、それもまたなぜなのか?あまり問われることのない、「本能寺の変は、なぜ本能寺で起きたのか?」にも迫ります。
京都に残る信長の史跡も写真・図版で解説し、史跡巡りにもオススメの1冊です。
NHK大河ドラマ 信長を演じた俳優さん
1973年 国盗り物語 高橋英樹
1978年 黄金の日 高橋幸治
1981年 おんな太閤記 近藤正臣
1983年 徳川家康 役所広司
1987年 独眼竜政宗 津川雅彦
1992年 信長 KING OF ZIPANGU 緒形直人
1996年 秀吉 渡哲也
2002年 利家とまつ~加賀百万石物語~ 反町隆史
2006年 功名が辻 館ひろし
2009年 天地人 吉川晃司
2011年 江~姫たちの戦国~ 豊川悦司
2014年 軍師官兵衛 江口洋介
2016年 真田丸 吉田鋼太郎
2017年 おんな城主 直虎 市川蔵海老
2020年 麒麟がくる 染谷将太
まとめ
妹のお市の方にも触れて欲しいと思いましたが、
それはこの本の管轄外だったんですね。
終わり・・